意味
「仏の顔も三度」とは、どんなに温厚で慈悲深い人でも、何度も無礼なことをされれば、ついには怒り出すという意味のことわざです。
いくら優しい人でも、我慢には限界があるという教えです。
語源・由来
このことわざの「仏」とは、文字通り仏像、あるいは、非常に穏やかで慈悲深い人を指します。
仏像は、どんなに人が触れても怒ることはありません。
しかし、ことわざでは「三度まで」とされています。
これは、「三度」が具体的な回数というよりは、「何度も繰り返される」ことの比喩表現です。
正確な初出は不明ですが、古くから日本で使われてきたことわざであり、仏教の教えが人々の生活に深く浸透していたことを示しています。
「仏の顔も三度撫ずれば鼻ひしげる」ということわざもあり、こちらの方がより古い表現である可能性があります。
使用される場面と例文
「仏の顔も三度」は、主に誰かの度重なる無礼や失礼な行為に対して、注意や警告をする際に使われます。
また、自分の我慢の限界を伝える際にも使われます。
例文
- 「何度注意しても、彼は私の話をまともに聞かない。仏の顔も三度と言うし、そろそろ私も怒るかもしれない。」
- 「彼女はいつも優しいけれど、あまりわがままばかり言っていると、仏の顔も三度だよ。」
- 「お客様は神様かもしれないが、仏の顔も三度という言葉があるように、度を超えた要求には応じられない。」
- 「いつもは穏やかな父だが、仏の顔も三度というから、あまり怒らせない方がいい。」
文学作品等での使用例
夏目漱石の小説『吾輩は猫である』には、次のような一節があります。
「全くむやみに人を馬鹿にするのも善くない。仏の顔も三度とやらいう諺(ことわざ)さえある事だからね」
この一節では、登場人物が、あまりにも人を馬鹿にする行為に対して、戒めの言葉として「仏の顔も三度」ということわざを用いています。
類義語
- 堪忍袋の緒が切れる:我慢の限界が来て、怒りが爆発すること。
- 三度目の正直:二度失敗しても三度目は成功するという意味。失敗しても諦めないことの大切さを説く際に用いる。(※少し意味は異なる)
「仏の顔も三度」は許容範囲を示す際に用い、「三度目の正直」は期待や努力を示す際に用いる。
関連する心理学の概念
- 限界:心理学では、人が耐えられる刺激やストレスには限界があることを示す。
「仏の顔も三度」は、この限界を超えると、穏やかな人でも怒りを感じることを示唆している。
対義語
- 石の上にも三年:辛抱強く続ければ、いつか必ず報われるという教え。
- 忍耐は美徳(にんたいはびとく):我慢強く耐えることは、人間として大切なことであるという考え方。
使用上の注意点
「仏の顔も三度」は、相手に「これ以上は許さない」という強い警告を伝える言葉です。
そのため、軽い気持ちで使うと、相手を不快にさせたり、関係が悪化したりする可能性があります。
使用する際は、本当に我慢の限界に達しているのか、相手に伝えるべきなのかをよく考える必要があります。
英語表現(類似の表現)
Even a saint will lose patience if provoked too much.
直訳:聖人でさえ、あまりにも挑発されれば忍耐を失う。
意味:どんなに温厚な人でも、度重なる無礼には怒る。
例文:
He kept teasing her, but remember, even a saint will lose patience if provoked too much.
(彼は彼女をからかい続けたが、覚えておきなさい、聖人でさえ、あまりにも挑発されれば忍耐を失う。)
I’ve had it up to here.
意味:もう我慢できない。
「仏の顔も三度」より、直接的な怒りの表現。
例文:
I’ve had it up to here with your constant complaints.
(あなたの絶え間ない不満には、もう我慢できない。)
That’s the last straw.
直訳:それが最後の藁だ。
意味:もう我慢できない。
※「ラクダの背骨を折る最後の藁一本」という表現が元になっている。
例文:
You’ve been late every day this week. That’s the last straw!
(今週、毎日遅刻していますね。もう我慢できません!)
まとめ
「仏の顔も三度」は、どんなに温厚な人でも、度重なる無礼な行為には怒りを感じる、我慢には限界があるということを表すことわざです。
このことわざは、人間関係において、相手への配慮や節度を持つことの重要性を教えてくれます。
また、自分の感情を適切に表現し、我慢しすぎないことも大切であることを示唆しています。
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