「弘法にも筆の誤り」の意味・語源・由来
意味
弘法にも筆の誤りとは、書の名人として知られる弘法大師(空海)でさえも、書き損じをすることがある、という意味のことわざです。
どんなに優れた人、名人・達人であっても、時には失敗することがある、ということを表しています。
人間は誰でも不完全な存在であり、完璧な人はいない、という教訓を含んでいます。
また、失敗を恐れずに挑戦することの大切さや、失敗した人を許容する寛容さの必要性を示唆しているとも言えるでしょう。
語源・由来
「弘法」とは、平安時代の僧、空海(くうかい)のことです。
空海は、真言宗の開祖として知られるだけでなく、書の名人としても有名でした。
能書(のうしょ:書道が上手な人)の代名詞的存在です。
このことわざは、その空海でさえも、筆を滑らせて書き損じをすることがある、ということを表しています。
具体的なエピソードがあるわけではなく、空海の書の名声と、人間は誰でも失敗する、という普遍的な真理を結びつけた、たとえ話として生まれたと考えられます。
ことわざ自体は、江戸時代から使われ始めたと言われています。
「弘法にも筆の誤り」の使い方(例文)
- 完璧主義の彼がミスをするなんて珍しい。弘法にも筆の誤り、だね。
- どんなにベテランの職人でも、失敗することはある。弘法にも筆の誤り、というだろう。
- 今回の失敗は残念だったが、弘法にも筆の誤りと言う。気を落とさずに、次に活かそう。
- 彼はいつも完璧だが、弘法にも筆の誤り、人間だれしも間違うことはあるさ。
- 「弘法にも筆の誤り」というように、過ちを恐れずに挑戦することが重要だ。
注意! 間違った使い方
このことわざは、「名人でも失敗することがある」という意味であり、「失敗しても仕方がない」という意味ではありません。
- 弘法にも筆の誤りだから、失敗しても反省する必要はない。(✕ 誤用)
(失敗から学ぶ姿勢が大切です。)
「弘法にも筆の誤り」の類義語
- 猿も木から落ちる(さるもきからおちる): 木登りが得意な猿でも、時には落ちることがある。名人でも失敗することがあることのたとえ。
- 河童の川流れ(かっぱのかわながれ): 水泳が得意な河童でも、時には川に流されることがある。名人でも失敗することがあることのたとえ。
- 上手の手から水が漏る(じょうずのてからみずがもる): どんなに上手な人でも、時には失敗することがある。
「弘法にも筆の誤り」の対義語
このことわざに明確な対義語はありません。
「完璧であること」や、「絶対に失敗しないこと」を表す言葉が、対照的な意味合いを持つと言えるでしょう。
- 完璧(かんぺき): 欠点がなく、完全であること。
- 完全無欠(かんぜんむけつ): 欠点が全くないこと。
- 絶対(ぜったい): どんな場合でも変わらないこと。
使用上の注意点
「弘法にも筆の誤り」は、失敗した人を慰めたり、励ましたりする際に使うことができますが、相手の失敗を軽んじるようなニュアンスで使うのは避けましょう。
また、自分の失敗を正当化するために使うのも適切ではありません。
「弘法にも筆の誤り」の英語表現
Even Homer sometimes nods.
ホメロスでさえ、時には居眠りをする。(直訳)
ホメロスは、古代ギリシャの偉大な詩人。彼でさえ、時には間違いを犯す、という意味です。
例文: Don’t worry about making mistakes. Even Homer sometimes nods.
(間違いを恐れるな。弘法にも筆の誤り、だ。)
Nobody’s perfect.
完璧な人はいない。 「弘法にも筆の誤り」と似た意味を表す、一般的な表現です。
To err is human.
過つは人の常。 人間は誰でも間違いを犯すものだ、という意味です。
まとめ
「弘法にも筆の誤り」は、どんなに優れた人でも、時には失敗することがある、という意味のことわざです。
人間は誰でも不完全な存在であり、失敗から学び、成長していくことが大切である、という教えを含んでいます。
この言葉を胸に、失敗を恐れず挑戦し、また、他人の失敗にも寛容でありたいものです。
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